white-journeyの日々是探求

日常生活でふと心にひっかかったこと、疑問に感じたことなどを真面目な感じで語っていきます

有効な時間の使い方

大学生になってから、有効な時間の使い方とは何か、常々考えながら過ごしてきた。

 

講義に真面目に出席するもよし、サークルに打ち込むのもよし、アルバイトに明け暮れるのもよし。

旅行に行ったり、友人と朝まで飲んだり、何をするのも自由だ。

 

自由な時間をどう過ごすかは千差万別だが、わたしの出した答えは、「家にいる時間は、可能な限り知的能力の向上に努める」ことだった。

背景には、高校生の時にゲームに熱中しすぎて時間を無駄にしたことへの反省と、大学受験時に勉強に真面目に取り組まなかったことへの後悔があった。

 

その結果、大学入学後3年半ほど、ほぼ息をつく暇もなく、日中は講義・サークル活動・アルバイト、夜は勉強/読書と、常に何かに急き立てられるように、自身の能力向上に励んでいたように思う。

もちろん、テレビドラマを見たり友人と遊びに出かけたり旅行したり、と楽しむ時間もたくさんあった。しかし、これといって何も予定のない時は、「何かのスキルを得なければ」という焦りにかられて、ゆっくりテレビを見たりネットサーフィンをしたり、ということはほとんどしてこなかった。

 

だが今年になって、友人から自分の欠点を指摘してもらう機会を得た。

そこでもらったのは、「視野が狭い」との言葉。「確かにそうだな」と自分でも納得。テレビやネットのニュース・バラエティ番組などから流れてくる、楽しい話題や自分の生活とは直接関係のない話題には、極力触れないようにしてきた結果だ。

大学生活でも、友人と会話をしていて、自分には「どうでもいいことを楽しむ」気持ちが欠けている、と感じることが多々あった。例えばスポーツ観戦の話が出ても、「観るのに時間がかかるし、結果だけわかればいいんじゃないの」といった具合に。

 

私はいったい、何をそんなに焦っていたのだろうか。最近、つくづく思う。

スキルを向上させた先に何があるのか、何をしたいのか考えもせず、ただなぜかいつも必死で、焦っていた。当時は「充実した生活」を送っていることに満足していたが、「頑張ること」が目的化していたと気づいた今では、あの時の未熟さゆえの若さ(若さゆえの未熟さ?)が羨ましくもあり、同時に、(まさに)「視野が狭い」と嘆かわしくもなる。

 

「無駄なこと」とそうでないことの判断は、案外難しい。

ぼんやりテレビを見ていて、番組を楽しんでいれば、そこで出てきた芸能人の話題で、明日、友人と盛り上がるかもしれない。反対に、テレビばかり見ていて勉強していないと、単位を落としてあとで苦労したり、社会に出てから知識不足で恥をかくこともあるかもしれない。

 

全てをバランスよくこなせれば一番いい。中高生の頃は、時間の使い方について考えたことなどほとんどなかったから、趣味も勉強もそれなりにこなして満足していた。「批判的思考能力」が養われるにつれ、自分の生き方を日々問い続け、「これでいいのだろうか」と悩み苦しむ。これも、勉強することの一つの弊害かもしれない。いや、資本主義社会で常に競争に晒され、他者を蹴落とすことの必要性ゆえに生まれる焦りであるかもしれない。

 

とはいえ、周りにも十分日々の生活を楽しんでいる人々はいるのだから、私の個人的な性質によるものが大きいのだろう。人生の時間は有限だが、そのことを気にしすぎず、毎日を気ままに生きるのが一番幸せなのかもしれない。